Sunday, December 26, 2010

On Winning in English Discussion

英語の議論で“勝つ”ための3つの技術
-発音がきれいでも、説得はできない-

ボストン・コンサルティンググループ日本代表
御立尚資

 2006年から、自社のグローバル経営会議(Executive Committee)のメンバーを務めている。メールや電話での個別のやりとりは別にして、メンバー全員が出席する正式な会議は、2週間に1回程度のテレフォン・コンファレンス(電話会議)と、2カ月に1回4~5日かけて議論をするリアルでの会議だ。
 経営陣自体の視野を広げ、現地の政府・企業の方々との議論の機会もできるだけ増やすという考え方から、リアルでの会議は世界各地持ち回りで行われる。この1~2年も、ロンドン、フランクフルト、サンフランシスコ、シドニーといった辺りは当然として、モスクワ、ドバイ、サンパウロといった新興国の都市にも積極的に出かけてきた。
 特に新興国では、当然ながら、経営会議のメンバーも、そのすべてについて現地事情に通じているはずはないので、会議の機会に自分の目で現地を見て、実際に様々な人と議論することが、半強制的な経営陣への教育の機会にもなっている。「百聞は一見にしかず」というのは、ICT(情報通信技術)時代の現在でも正しい部分があって、私自身、新たな場所に行って議論する度に、いろいろなことを学ばせてもらっている。日本からだと、時差がきつい地域がほとんどなのだけは、参ってしまうが・・・。

「英語っぽい」でも戦える

 さて、現在のメンバーの国籍は10カ国に上る。以前にも、異文化マネジメントという観点から、経営会議で感じたことを少し書いたことがあるが、その頃よりもさらに国籍の多様化は進んだ。文化も母国語も様々な仲間と一緒に経営に携わるというのは、なかなかおもしろい経験だ。
 恥ずかしながら「紺屋の白袴」で、普段からクライアント企業の経営者の方々と、経営のグローバル化について議論している割に、実際にグローバルな経営チームの中で働いてみて、初めて実感できることは数多い。
 今回は、その中でも「英語」について少し触れてみることにしたい。具体的には、経営会議の場で意見を戦わせて会社全体の方針を決定する際に、自分の意見を通したり、他人の意見と組み合わせたりすることで、1+1>2となるように貢献する。そういった「英語による議論の技術」に近い話である。
 ひとつ、お断りしておかなければならないのは、今回の内容は、あくまで私の英語能力の程度に応じたものでしかない、ということだ。もっとハイレベルの英語能力を有する方々は別の感覚をお持ちかもしれない。この点、ご寛恕いただきたい。
 私個人は、帰国子女でも、バイリンガルでもない。たまたま、大学時代は米文学を専攻したので、普通より少し多めに、英語の読み書きのトレーニングを受けたとは思うが、恥ずかしながら、(当時の)「正しい大学生のあり方」を貫徹し、4年間遊び呆けていたので、「そこそこ」レベルに達したに過ぎない。英語力の中核は、中学・高校時代の受験勉強、特に英文和訳や和文英訳といった「ヨコのものをタテに、タテのものをヨコに」する翻訳の基礎で身についたものが中心だ。
 英語圏に住んだのも、30代半ばでのビジネススクール留学が初めてのことだった。ビジネススクールに留学したことで、受験英語に加えて、「英語での議論の技術」をほんの少しだけ習得する機会を得た、というのが正直なところだろう。
 このレベルの英語力で、経営会議の場で、すべて英語での真剣勝負の議論というのは、なかなかきついものがある。一部の会社の取締役会のように、事務方が中身を用意し、根回しも済ませた案件について、しかも日本語で議論する、というのとはワケが違う。
 アジェンダは決まっていても、論点の設定から結論についての合意形成に至るまで、会議期間中、その場その場で徹底的に議論し、意思決定を繰り返していく。また、そのプロセスへの参画と貢献で、自分自身への仲間からの評価も決まっていく。
 10人強の投票権を持つメンバーそれぞれは、いわば知的格闘技であるコンサルティングの仕事の中で、それなりに勝ち上がってきた猛者ばかりだ。彼ら彼女らが、担当地域・領域の現場実態を背景に、自分自身の意思と意見を強固に持ち、お互いへの信頼感や尊敬が保たれるぎりぎりの線でせめぎ合う。これはなかなか見物(みもの)で、最初のうちは、参加することを忘れて、議論のダイナミズムに思わず聞き惚れてしまったことさえあるくらいだ。
 こんなことを何年かやってきて感じたのは、(少なくとも我々の経営会議のような場では)日本でよく言われる“英語ができる”というのとは、少し違った能力が求められる、ということだ。

 まず、実際に我々の経営会議では、非英米人、かつ相当ユニークな発音でしゃべる連中が議論をリードする機会が数多い。
 ところが、私を含む多くの日本人には、一種の「発音コンプレックス」があって、完璧な発音でしゃべる人を見ると、ついつい感心してしまう。そのせいか、社会人になった後も、発音を中心としたリスニング・スピーキング教育に時間をかける例が多い。
 「耳慣れ」によって、一定以上の聞き取り能力を獲得する。そのために、自分でもある程度「英語っぽい」発音ができる能力をつける。そこまでいけば、それ以上の発音レベルの上達にこだわっても、あまり意味がないように思える。
 もちろん個々人による違いは大きいが、私が留学していた大学院では、帰国子女で英語の会話はネイティブそのもの、ところが授業中の議論で貢献できずに苦労するという例が数多くあった。大抵は、小中学校時代に英語圏に長く住んでいたが、大学教育は日本で受け、かつ勤務経験が短い、という人たちだ。高等教育の場で、英語での議論の技術を訓練する機会に恵まれず、また、経営の具体論を語る体験も少ない、というのが、ご苦労の共通原因だったように思える。

論理力がないと英語にならない

 では、英語での議論の技術とはどのようなものか。私個人の現段階の仮説では、「論理」「議論のコツ」「土俵設定力」の3つの要素が、その根幹をなしているように思える。
 第一に論理。『英語は論理』(小野田博一著、光文社新書)というそのものずばりのタイトルの本があるが、論理構造のクリアさが、英語での議論の技術の最重要要素だ。丁々発止の議論の場では、実は、感情をわざと表に出すといったことを含め、様々な心理的「武器」が使われるのだが、それもあくまで「論理」の強さがベースにあってのこと。
 論理性にかける発言は、誰にも聞いてもらえない。
 もっと言うと、論理力がないと、(発音という意味ではなく)まともな英語にならない。日本語の会話文は、論理性よりも、その場の「空気を作る」のに向いている部分があるので、普通に日本語で思考し、タテのものをヨコにするだけでは、全く伝わらない。
 従って、バイリンガルに育っていない普通の日本人にとっては、次のような技術習得のステップが必要となる。
 『英語は論理』や『考える技術、書く技術』(バーバラ・ミント著、ダイヤモンド社)に示されているような、インドヨーロッパ語圏で発達した論理構造を身につける。
 「真の」和文英訳力、すなわちタテの「(論理的には)緩い」発想を、いったんきちんとした論理構造に変換、その後、英語にする、というスキルを磨く。

議論に便利な語句を習得しよう

 第二に、「分かってしまえば、単純なコツ」=ティップス(tips)が意外なくらい役に立つ。例えば、テレビの業界用語で言えば、「尺に応じた」意見表明だ。テレビの生番組でコメントをする際には、発言可能な時間(=「尺」)に応じて、キーワードを選択し、その説明の詳細度を判断しなければならない。
 10秒だけしかない場合なら、言いたいことのポイントを「一言」でまとめる。30秒あるならば、ポイントを述べた後で、その意見に至った理由を、簡潔に述べる。1~2分ならば、自分がどういう論点について話すかを述べたうえで、意見を示し、その背景を論理とイメージで伝える。当たり前なのだけれど、こういった「尺に応じた」意見表明は、経営会議での議論の中でも求められる。
 英語でこれができるようになるには若干時間がかかるが、会議の流れを読み、自分がどれくらいの長さ、どういう詳細度で話すべきかを判断してから発言できるようになると、チーム全体への貢献度が明らかに変わってくる。おもしろいもので、そうすると、周囲の目も変化し、結果として「言いたいことを言いたい場面で話す」チャンスを与えられる確率が高まってくるのだ。

 もう1つだけ、コツの例を挙げると、「議論に便利な語句」習得、というのがある。英語のネイティブ・スピーカーたちの中でも、議論を前向きに進める力が高い人たちの発言を観察していると、うまく使えば効果的な語句群が存在する。私自身は、気がついた時に、それらをノートの裏表紙に書き留めて、少しずつ覚えるようにしている。
 例えば、“in a nut shell”とか、“caveat”とかいった類だ。前者は「単純化して言えば」、後者は「注意点、留意点」という意だが、発言の流れの中で強調したいポイントを挙げる時に使われることが多い。この手の語句を、どういう流れの中で使うかというコンテクストも含めて、身につけておくと、存外、役に立つ。
 ちなみに、“Quid pro quo”=「代償」とか、“sine qua non”=「必須条件」とかいったラテン語起源のものもいろいろあるが、こちらは、そこそこの英語能力の人が使うと、聞く側が違和感を感じてしまうこともあるので、注意が必要。聞いて理解できるレベルで、満足しておいたほうが良いように思う。

「土俵設定力」は得意のはず

 最後に、私自身は最も重要だと考えている「土俵設定力」。これは、本来日本人が得意とするところであり、もっと意識的に活用できれば、グローバルな議論の場での競争力アップに相当効果的な能力である。
 出席者間の意見の相違が大きく、議論が膠着状態に陥る。これを防ぐ最大のポイントは、議論そのものの土俵を適切に設定することだ。言い換えると、「どこまでは合意できそうな論点で、どこからが意見の分かれるところか」という「構造」を明確にし、それを出席者にきちんと伝える、ということになる。これができるかどうかで、会議そのものが建設的に終わるか否か、大きな差が出てくる。
 土俵設定力を発揮するためには、
 会議開始前に、出席者の顔を思い浮かべ、「どの人は、どこが論理的にひっかかりそうか」「どの人は、どこが感情的に受けいれられないか」といったことを徹底的に想像してみる。
 想像する内容が確度高く「当たる」ように、事前に可能な限りの情報収集を行なう。
 といったことが必要になるが、これは、意識して経験を積んでいくことで初めて身につく類のスキルである。
 そもそも、日本人(あるいは日本語)の特性として、相手の立場、意見を忖度しながら、それに応じて、内容、言い振りを取捨選択し、関係性を損なわない形でスムーズに会話を進める、という部分がある。この特性とそれを使いこなす経験を積んできた日本人は、きちんと意識さえすれば、「土俵設定力」を英語の議論の場でも高いレベルで発揮し、厳しい議論の中で、建設的な貢献をすることができるはずだと考える。
 日本企業がグローバル化していく中で、最大のチャレンジは、経営陣そのもののグローバル化だろう。また、会計基準のグローバル・ハーモナイゼーションや様々な環境関連のスタンダード作り、といった「日本人が議論に貢献し、みずからの国益をきちんと守る」ことが求められる機会も、ますます増えている。
 これらを考えると、英語での議論の技術を大いに磨き、国際的な交渉や議論の場で、活躍できる日本人を大幅に増やすことが、どうしても必要だ。しかも、一部の「国際派」人材に頼るのではなく、日本のリーダー自身が英語での議論で闘えるようにならなければならない。
 単なるビジネススキル論としてではなく、日本が国際競争力を維持し続けるためにも、「英語での議論の技術」について、もっともっと活発な議論が巻き起こり、「技術向上」の具体的な動きが、次々と出てくることを、結構、大真面目に願っている。
 皆さん、どう思われますか?