Wednesday, November 3, 2010

自分の軸



















「自分の軸がしっかりしているよね」
自慢じゃないけど、
いろんな人にこういう風にいわれたことがある。
でもその言葉の裏に、「自己チュー」、
「生意気」、「マイペース」、「扱いづらい」
などなど。


色んな否定的な意味があることもわかっている。

ただ、これだけは決めている。

「他人が決めた定義に沿って人生を生きることなんて、
何の意味があるんだろう?
一度しかない人生なのだから、
それだったら、自分は肉体労働者でも構わない。
自分の一人の人間としての尊厳が損なわれないような生き方をしよう」

そう誓っていたのだった、昔から。
その思いは変えないようにしたい。

思い返すのは、
中学一年生の道徳の時間で、
友達に言いにくいことを言うとき。
友達が他の友達をいじめているとき、
あなたならはどうしますか、正直に彼/彼女に伝えることが出来ますか、
という議論したこと。

自分がそのとき答えたのはこうだった。
「自分の中に『正義』があれば、そんなことは問題にはならない。
だから、もしこの問題に迷いを感じるなら、
自分の中に『正義』を作る。それでいいんじゃないですか。」

自分の中に、絶対的な『善』があれば、
それは、周りの人にとっても(多少なり)『善』であるはずだし、
それは間違いではないはずだ。
だって、「良いこと」って一義的でしょ?
人類皆兄弟、最大公約数の幸福が、最善の解であり、
それはパズルのピースを埋めるように、
方程式を解くように、その解を求めることが
人生の幸福なのだ、そんな風に考えていた。

しかし、人生はそう上手くはいかない。
まず人生は方程式ではないし、
一人の人間は、世界というパズルの単なる1ピースでもない。
『善』の定義は、一人一人異なり、
『正義』もまたしかり。

本当に厄介なものだ。

これでは、何も出来ないではないか。

高校時代、そんな風に思ったことを思い出した。
そんな時期、有難いことに、運良くアメリカに留学することが出来た。
もしその経験がなかったら、今の自分は、
どこかの道ばたでくたばっていたのだろうと思う。

高校時代の留学経験を活かし、
なんとか大学に入って、4年間、
必死で勉強した。英語でプレゼンをすることも、
英語でペーパーを書くことも、
友達と吉野家で英語で会話することも全く初めてだらけの毎日だった。
早く周りの他の人のレベルに追いつきたい、という思いから、
なるべく英語を話す/使う環境に身を置くようにした。

学校での友達は英語ネイティブの人、
アルバイト先は英語を話せるところ、PCの言語設定(設定は英語)、
春休み/夏休みの海外バックパッキング。。。
出来ることは何でもやった。
英語は語源がラテン語ということで、スペイン語も勉強し、また違う側面から英語を活かせるようにした。大学3年、4年の休み中には南米に合計4ヶ月滞在した。
英語力は飛躍的に向上した。
そして、スペイン語も、まだまだ日常会話レベルではあるが、話せるようになり、
まだビジネスとして正式に使う機会には恵まれていないが、
いろいろと役に立っている。
「南米出身」だと、スペイン語でほぼ100%通じる(ブラジルはポル語だけど、
スペイン語で話すとわかってくれる)から心強い。いつかしっかりと勉強したい、
スペイン語。とか、いいつつ、今週から中国語のレッスンを始めることに。
中国。南米には言ったことはあるくせに、行ったことのないお隣の中国。。。

さて、なぜ地球の裏側の南米だったのか。
それはアルバイト先が、南米料理屋だったこと。
スペイン語は、南米大陸全般で話されており、英語、中国語に並んで、
多くの人々に話されている言語であること。
サッカーが好きで、南米ではサッカーが非常に盛んであること。
そして、チェ・ゲバラの影響が大きい。
「ゲバラの『魂』を知ってしまったら、もう後戻りは出来ないよね」

大学時代、よく行動をともにしていた先輩はそう言った。
僕の前にはどんな道があるのだろう。
後戻りできないのは良いとして、
これからどんな道が開けるのだろう。

自分の軸について、文化の日にちなんで考えてみたりした。