2001年9月11日を、私は米国で迎えた。
米国はメリーランド州サルスベリー市郊外の小さな田舎町で
留学先の州立高校に初登校した日だった。
その2日前に、飛行機で東海岸に到着した。
今となっては、話のネタにしかならないが、
その当時はまさに「激動のアメリカ」の渦中にいたようで
本当に混乱していたし、あの時のことは一生忘れないだろう。
特にあと数日フライトの予定日が違っていたかと思うと
今でもぞっとする。逆に、人間の命は、それほど
微妙な線の上に成り立っていることを再認識した。
留学先に東海岸を希望したのは自分だった。
東海岸は、米国の中でも保守的な地域として知られており、
留学先としてメジャーな場所では決してなかった。
それでも、私が東海岸を希望したのは、音楽が好きだったこと。
東海岸は、ニューヨークをはじめ、ジャズや、ヒップホップ、
そしてロックなど、独特なインテリジェントで、どこか筋の通った、
「職人肌」の音楽が多かったように感じ、そのことに強く惹かれた。
そんな背景もあって、留学先には迷わず東海岸を希望した。
ときは過ぎて、2011年1月21日、金曜日、午後7時。
図書館にて一冊の本を手にとった。
日本人外交官(という表現が正しいか分からないが)である筆者が、
ワシントンDCという遠く離れた地から、台湾と中国の関係を描いた書である。
この本を、金曜日の夜に手にとったことで、今日のわたしは
とっても深い闇に転げ落ちていくのだった。
話は、9月11日で始まる。
「わたしはマリオットホテルに滞在していた。このホテルは世界貿易センターの
第三号棟ビルにある。」
との記述にあるように、実際に事件の「当事者」として書かれている、
筆者の口調からはあのときあの場に「居た」ことの恐ろしさが伝わってくる。
それは、地震のマグニチュードのように、震源地に近ければ近いほど、
激しい振動を心と体を揺さぶるのだ。
あの事件のあと、一人留学先で孤独と恐ろしさに日々身を震わせていた自分は
時間の許す限り、他の留学先で同じように生活をしている友人に電話で
話をするようにした。アメリカ国内とはいえ、時差もある中での
会話という「恐怖の緩和剤」は、少しずつ私に現実と向き合う勇気を
与えてくれた。
震源地で、あの振動と残響残るワシントンDCで、
初めてのアメリカ生活で、
ああ、ものすごく辛かったんだろうな、凄い人だな、と
真摯に感じ入ってしまった。
普段の人となりを知っているだけに、余計に。
その方と初めておはなししたのは、今いる大学院の入学キャンプでのこと。
最終日のランチで、宗教学についての会話をネタに私に話かけてくださった。
福沢諭吉に関する授業を受講していたときのこと。
「福沢諭吉の宗教観」というものを聞いてみたのがきっかけだった。
元はといえば、大学ではもっぱら宗教について勉強していた。
だけど、「宗教について勉強していました」って、
人には言いにくい(変な人だと思われるのがヤダ&なんとなく野暮ったい?)
ので、「哲学」について勉強していた、という風に言い換えていた。
(それと、宗教について勉強していた、というと、「神学科ですか」という
質問を受けるので、そしてそれを訂正するのが非常に面倒なので)
話を元に戻そう。
「宗教」について、私が話すのを躊躇っていたのか、
自分の中で、タブーにしてしまっていたのか、
何も悪いことはしていないのに、わたしは、その話題に触れた
筆者に対して、ひどく壁を感じ、心を閉ざした。
自分の悪いくせだ。
自分は、最も自分が頑張ったことを隠す癖がある。
妙に、アーティストぶって、なぞめいた回答をすることがある。
「あいまい戦略」?
いや、意図され、計算されていないものを戦略とは呼ばない。
そんなこんなで、2001年に一度近い場所で同じ経験を共有した
ある一人のエリート官僚と、しがない社会人大学院生は、
およそ十年後に、教員と学生という立場で再び巡りあうのであった。
およそ、なんらかのImplicationがあることを感じつつ、
明日から、「自分は大学(学部)で、『宗教』を学んでいました」って堂々と言おう!
と心に決めたのだった。
−とりあえず、いったん、おわり−