いくつか、最近読んで、面白かった本について。
20歳の時に知っておきたかったこと。
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(本書より抜粋)1950年にスタンドード大学を卒業し、52年に法学の学位を取得した女性がいます。彼女は次男が生まれて5年間は有給の仕事に就かず、フェニックス・ジュニア・リーグや救世軍(Salvation Army)などのボランティア活動で忙しく活躍しました。その後、一番下の子が学校に上がったのを機に、州検事総長のオフィスでパートタイムで働く事にしました。
子供達と家で過ごした時間は、キャリアの妨げにはなりませんでした。。。現在の女子大学院生は、自分の頃よりも環境に恵まれていると言います。「一つの救いは、今の女性の寿命が延びていることです。働く期間が長くなり、キャリアをいくつも変えていけるようになっているのです。だから、2、3年とられたとしても、全てが無くなる訳ではありません。」
ちなみに、この女性とは、女性として初めて合衆国最高裁判事となったサンドラ・デイ・オコナーです。
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この本を読んでいると、自分の今やっていること、やろうとしていることが、どれだけ自分にとって価値のあるものなのか、考えさせられる。以前、「経営の本質とは、『なにをするか』ではなく、『何をしないか』だよ」といった話をどこかで聞いた。人生に於いても、全く同じなのかな、とこの本を読むとおもってしまう。自分は20歳ではもう無いけれど、自分が何年も続けてきたもの—仕事や習慣—が、必ずしも、未来の自分に対してプラスになるとは限らない。人生において、プライオリティは本当に重要なんだな、と再認識させてくれた。
これからの正義の話をしよう
NHKでも放送されていた、マイケル・サンデル教授の講話。
一見分かりづらいとされている「哲学」を、分かりやすいケースを用いて、上手く説明されている本。
中でも、カントの話は個人的に興味深かった。
近代哲学と言われるジャンルが在ったとして、その中で代表的な哲学者と言われるのは間違いなくデカルトとカントである。
システマティックに考えると、デカルトは「分解 Decompose」を提唱した哲学家だと個人的には認識している。彼のMeditationなどを読むと、如何に彼が、かの有名な「我思う、故に我在り Cogito, Ergo Sum」に至ったのかを伺い知る事が出来る。彼がMeditationで用いたメソッドとは、「全てを疑いの振るいにかけ、その上で、確かなものを抽出する」という手法である。
デカルトは、それを約一週間繰り返し、前述の回答に達したのである。
一方で、カントはどうか。
カントと言えば、「純粋理性批判 Critique of Pure Reason」だが、
彼が気にしているのは、デカルトで言う、「分解された要素—我思う—」の存在する「理由」である。
「理由」とは、つまり「我思う」のコンテンツ(中身)の事を言う。
「理由」が正しければ、正しいOutcome(結果)が生まれるのではないか。もしくは正しい方向には少なくとも物事が進むのではないか。
逆に、「理由」が正しくなければ、物事は正しい方向には行かない。それは例えば、エンロン事件だったり、サブプライムローンだったり、どこかで「理由」が捻れてしまうと、正しくない結果がもたらされることになるのではないだろうか。
そんな事をカントは言っている。
ここで、前提としている「正しい」という事象の定義だが、
この場では、皆さんの良識に委ねるということをしたい。
今こうして、書きながら感じているのは、カントの「理由」に対するフォーカスは、
西田幾多郎先生の「善の研究」に、関係しているものなのではないだろうか、と。
余談だが、西田幾多郎先生の論文は、難解なことでも有名である。学部時代に何度か挑戦したが、結局、その全ての挑戦は、論文を枕代わりに使うこととなった。
今こうして、哲学や正義に時代の目が行っていることを何故か誇らしく感じる。同時に、全く新しい環境で挑戦を始めたのだから、そのことにフォーカスしなくてならない。
次は、「キャズム」について書きたいと思う。